- 『乃木希典』福田和也

2008/09/20/Sat.『乃木希典』福田和也

乃木希典——、そう聞いて思い浮かぶ事柄は二つ。旅順攻略戦と殉死である。

軍人としての乃木の評価は低い。司馬遼太郎『坂の上の雲』以来、乃木愚将論は国民的なコンセンサスとなっている。

戦後、『機密日露戦史』など、参謀本部文書が公開されて研究者の間にも (T 註、乃木は) 無能だという認識が広まっていったが、やはり決定的なのは、司馬遼太郎の著作だった。

『坂の上の雲』における、旅順で、無策のままに数万の人名を浪費した愚将。『殉死』における、軍人ならざる詩人乃木、というイメージは強力である。「乃木希典は軍事技術者としてほとんど無能にちかかったとはいえ、詩人としては第一級の才能にめぐまれていた」(「要塞」)

(「面影」)

「詩人」というのは詩才を指して言っているのではない。一人の人間でいながら——そして愚将とまで罵られる程度の軍人でありながら——、死後、神にまで祀り上げられたその高潔な生き方、詩としての乃木の人生のことを意味している。その乃木の詩は、明治天皇の崩御に対する殉死で完結する。

軍人・乃木と、詩人・乃木は別物であるのか。あるいは両者は不可分のものであるのか。本書ではそこに眼目が置かれている。キーワードは「徳」である。

長州藩で松下村塾門 (師は玉木文之進 [吉田松陰の師]) でありながら、戊辰戦争には参加せず、維新後、軍に入ったものの、軍閥 (= 藩閥) とは疎遠で、それゆえ純粋に新政府 (= 明治天皇) に忠を捧げるに至った。

西南戦争で軍旗を奪われ、以後、死に場所を求め続けた。

乃木は放蕩を繰り返したが、当時の軍人が料亭で遊ぶのは普通のことであった。乃木の遊びは、彼が「軍人らしい軍人たろうと」したがためであると、本書では説明される。

もっとも盛大に、臆面もなく、遊び続けることで、放胆で度外れという、一つの理念的軍人像を描こうとしたのではないか。それは、同時に、緩慢なる自殺であったか。

(「徳義」)

乃木のこの思想は、ドイツ留学を経て 180度転換する。ドイツ陸軍を多分に誤解した乃木は、「宜シク徳義ト名誉ヲ勧メテ、全文ノ軍紀ヲ厳正ニシ、即チ我ガ陸軍ノ大元帥タル 天皇陛下ノ威武、人徳ヲ軍隊ニ拡充シ、上下軍人ニ忠君愛国ノ念ヲ固クシ、名誉ヲ貴ブノ心ヲ奨励」(「徳義」) することを志す。

何だ、旧軍の悪弊そのままではないか。確かにそうであろう。ある時期以降の陸軍の狂的な精神主義は、乃木と、乃木の神格化に寄るところが大きいかもしれない。しかし乃木は大真面目に考え、しかもそれを完全なまでに実行した。体現した。貫徹した。彼は常に軍服に身を包み、有徳の人物としてその生を生きた。

もちろん、乃木の努力は軍服だけではない。

料亭、芸妓を遠ざけたという話はすでにした。

生活をとことん質素にした。

家での食事は、稗飯だった。

客が来れば、「御馳走だ」と云って蕎麦を振る舞う。

軍務についている時には、兵隊と同じものを食べた。

特別な食事を供されると、食べずに返した。

田舎親父が、好意で用意してくれたものは、喜んで食べた。

宿で、畳に直接軍服で寝た。

煙草は一番安い「朝日」だった。

自動車には乗らなかった。

雨でも馬にのった。

傘をささずに、豪雨の下を歩いた。

負傷兵に会うと、どんなところでも馬を下りて、「ご苦労だったなあ」とねぎらった。

夏でも蚊帳を使わなかった。

身の回りのことは、すべて自分でした。

従卒や副官の手を煩わせなかった。

(略)

馬を可愛がった。

長年仕えた馬丁に年金がつかなかったので、毎年、年金にあたる分の金を送ってやった。

怪しげな依頼にも、感じるところがあれば、金を送った。

乃木は次第に、一つの詩のようなものになった。美しいが、人工的で、非現実的なもの。しかし、彼は紛れもない、生身の人間だった。

(「徳義」)

これは明治帝、大日本帝国元首としてその人生を捧げなければならなかった天皇その人と同じではないのか。否、明治天皇より厳しい生き様である。明治帝にはまだ後宮があった。そこでは大いにくつろがれたという。しかし乃木は、365日 24時間「有徳の将軍・乃木希典」であった。そこが凄まじい。戦慄すら覚える。

そんな乃木を明治帝は愛し、皇太孫 (昭和天皇) の学習院院長たることを命じた。こうして、明治天皇と乃木希典の精神は昭和天皇に結実する。

昭和天皇は、乃木希典の名前をもっとも印象深い人物として挙げ続けた。

即位の御大礼をすまされた昭和三年十二月十四日、二重橋前で東京府の主催により、総勢八万人の在郷軍人と男子学生による行進、女子学生による奉祝歌の合唱が催された。

当日、雨が降り出し、参加者たちは、寒風のなかで凍えて出御を待たなければならなかった。陛下は、側近に御自分が立つ場所から天幕をはずされるとともに、参加者に雨具を使用させるようにと命じた。

天幕がはずされると、天皇は玉座の前にお立ちになり、侍従から渡されたマントを捨てた。それを知った参加者たちも雨具をしまった。昭和天皇は、雨中、一時間以上、行進する軍人、学生にたいして挙手の礼をとり、微動だにしなかったという。

(「葬礼」)

腐ったような生活を送っている俺は随分と色んなことを考えさせられた。

さて、乃木の最大の悲劇は、旅順攻略戦の指揮官に任命されたことだろう。旅順戦がなくとも、乃木は高潔な軍人として、少なくとも当時の人々の記憶には残っただろう。しかしまた、これほどまでに神格化されることもなかっただろう。乃木の名前が現在にまで語り継がれているのは、旅順戦があったためである。旅順戦によって我々は、乃木希典という精神が明治に存在していたことを知る。だがそのことで、旅順に失われた数多の人命が救われるわけでもない——。評価はぐるぐると巡り、いずれ定まることはないだろう。

愚将か。詩人か。どちらも乃木希典である、と片付けるのは簡単だが、それを許さぬ迫力が本書には——乃木の生き様には——ある。