- 『三島由紀夫と楯の会事件』保阪正康

2008/08/27/Wed.『三島由紀夫と楯の会事件』保阪正康

一九七〇(昭和四十五)年十一月二十五日、三島由紀夫は、楯の会の会員とともに陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で東部方面総監を監禁し、自衛隊員にクーデターを呼びかけた後で割腹自殺した。この事件は一般に「三島事件」と呼ばれる。ただし筆者は、三島由紀夫が、作家であることと楯の会会長であることとを峻厳に区別していたという理由から、これを「楯の会事件」と呼んでいる。事実、楯の会会長としての三島に、作家・三島由紀夫の影はあまり見受けられない。

この事件は何だったのか。その答えはあまりにも多岐に渡るので、ともかく本書(あるいは類書)を読んでほしい、としかいえない。以下、本書の特徴と、個人的な感想を述べる。

一九八〇年に刊行された本書は、楯の会事件の関係者に綿密な取材を行い、楯の会創立から事件までの経過を丁寧に再現している。特に楯の会内部の描写には瞠目する。「作家・三島のお遊び」「三島の親衛隊」といった印象もある楯の会だが、実態は、極めて高い作戦・軍事・情報能力を持つ、高度に訓練された若者の集団であった。彼らの多くは、学生運動を経て楯の会に参加した。面白いのは、会員の大部分が三島の著作など読んだことがない、読む気もない、という部分である。また三島も、彼らに自分の小説を読んでほしいとは思っていなかったようだ。楯の会は、作家・三島のカリスマに依らない、純粋に政治的な結社であった。

もっとも会員の多くは、楯の会会長としての三島に絶大なカリスマを感じていたという。その源泉はどこにあったのか。崇高な理念か、緻密な論理か。ここがよくわからない。確かに三島の掲げる理想は高邁で、よく論理武装されていた。三島は左翼の学生を何度も公開討論において論破している。けれども、それは表層的な部分においてであって、徹頭徹尾の論理性や、それを支える理性的な哲学というものが見えてこない。三島の思想は、彼独特の美学を基盤にしている。ゆえに楯の会が「何をしたかったのか」がわからない。この事件が一種不思議である原因がそこにある。

三島と楯の会の仮想的は国内左翼であった。それらと対決するのが自衛隊である。楯の会は、左翼との決戦において自衛隊の先兵となることを目的とし、日常の活動、訓練を行っていた。そして、思想に潔癖な三島は、自衛隊がその使命のために機能することを願うのと同じく、「敵」である左翼も(彼らの思想において)正しく強くあることを望んでいた。

一九六九年(昭和四十四)年十月二十一日、国際反戦デーにおいて左翼が爆発し、自衛隊の出動が要請されることを三島は願っていた。その日こそ、楯の会が立ち上がるときなのである。しかしその願いは叶わなかった。

反日共系のセクトは、「十月決戦」を叫び、大衆の意識に火をつけ、それで七〇年になだれこもうとしていた。しかし、それは不発に終った。機動隊の壁に阻まれ、大衆の支持を得ることができず、孤立して終ったのである。

新聞や雑誌は、この反戦デーの動きが不発に終った理由をつぎのように理解していたようだ。

<東京地検では騒乱罪を適用しようとしていたが、警察力が強化されていて、学生側は正面から衝突できなかった。しかも指導者の多くはすでに逮捕されていた。それに、新宿では地元民が自警団をつくり、彼らが学生たちの動きを克明に警察に伝えた>

ある新聞は、「市民、学生を見放す」という見出しを掲げたが、それは状況を的確にあらわす言葉であった。

この日、三島は、楯の会の会員とともに新宿駅付近を歩きまわった。騒動が最高潮に達し、警察力ではどうにも押さえがきかなくなり、そのうえで自衛隊の治安出動が発動される状況を、三島は望んでいた。しかし、事態はそこまでいかない。いや、もし反日共系セクトの実力行動がそこまで辿りつかなくても、政府は意識的に、自衛隊の出動をすべきであった。政治的な効果を狙って、そうすべきであったのだ。そうすれば、自衛隊と警察と国家権力の相違が明確に浮かびあがってくる。

しかし、三島の想いは幻と終った。

三島は、新宿を歩きながら、ひとり憤慨しつづけた。「だめだよ、これでは。まったくだめだよ」と、ひとりごとをくり返し、自棄になったように、「だめだよ、これでは」と叫びつづけた。

(「第四章 邂逅、そして離別」)

三島のシナリオは画餅に帰した。彼は、自衛隊と左翼の両方に対し、深い絶望を覚えた。何より、楯の会は目的を失ってしまった。逆にいうなら、三島の美学と現実的な政治活動の接点は、そこにしか存在しなかったのである。この点が非常に危うく、脆い。

三島は、学生との討論において次のようなことを語っている。

学生のひとりが、「擁立された天皇、政治的に利用される天皇とは醜いものではないか」とたずねたときの答である。

そこで、三島はつぎのように答えているのだ。

しかし、そういう革命的なことをできる天皇だってあり得るんですよ、今の天皇はそうでないけれども。天皇というものはそういうものを中に持っているものだということをぼくは度々書いているんだなあ。[略]ひとつ個人的な感想を聞いてください。というのはだね、ぼくらは戦争中に生れた人間でね、こういうところに陛下が坐っておられて、三時間全然微動もしない姿を見ている。とにかく三時間、木像のごとく全然微動もしない、卒業式で。そういう天皇から私は時計をもらった。そういう個人的な恩顧があるんだな。こんなことを言いたくないよ、おれは。(笑)言いたくないけれどね、人間の個人的な歴史の中でそんなことがあるんだ。そしてそれがどうしてもおれの中で否定できないのだ。[略]

三島としばしば天皇論を交わした持丸は、天皇についてのこういう個人的体験をきいたことはなかった。

(「第四章 邂逅、そして離別」)

ここに出る三島の思想を脆弱と非難するのは簡単だ。しかしそれはひとまず措く。ともかく、三島の美学的政治思想は、その発露の機会を奪われた。楯の会事件の本質は、その目的の消失に依る部分が大きい。それが本書を読んでの感想である。本当に三島は左翼と闘いたかったのか、とすら思う。単に、大義名分が必要なだけだったのではないか。その疑念がどうしても拭えない。

三島の絶望が割腹自殺へと結実する過程も細かく描写されている。しかし、三島が何を考えていたのかは、やはり類推する他ない。楯の会事件に触れる人間が、ひとりひとり考える問題であろう。

三島と楯の会会員の紐帯は非常に強い。三島が会員に宛てた遺書も本書で公開されている。きめ細かく、感動せずにはおられぬ名文である。三島が最後に心配したのは、日本の末路ではなく、残される会員たちの未来であった。

どうか小生の気持を汲んで、今後、就職し、結婚し、汪洋たる人生の波を抜手を切って進みながら、貴兄が真の理想を忘れずに成長されることを念願します。

(「三島由紀夫の遺書」倉持清への遺書)

私は諸君に、男子たるの自負を教へようと、それのみ考へてきた。一度楯の会に属したものは、日本男児といふ言葉が何を意味するか、終生忘れないでほしい、と念願した。青春に於て得たものこそ終生の宝である。決してこれを放棄してはならない。

(「三島由紀夫の遺書」楯の会会員への遺書)

楯の会会員の多くは、三島の言葉をよく守り、商業右翼や政治結社に取り込まれることなく、市井の人間として堅実に生きているという。これは特異なことであろう。あくまで三島の思想に殉ずるのが楯の会なのである(会自体は事件後すぐに解散している)。その意味で、楯の会事件はやはり三島事件なのである。三島由紀夫のパーソナリティを無視してこの事件を論じることはできない。