- 『日本の黒い霧』松本清張

2007/11/04/Sun.『日本の黒い霧』松本清張

文庫版上下巻。収録作品は、上巻が、

下巻が、

である。歴史的にはマイナーな事件もあるが、タイトルが暗示するように、これらは全て何らかの謀略が関与している (明らかになっていないものもあるが、示唆はされている)。

さて、本書で扱われている事件は、朝鮮戦争を除き、全て GHQ の占領下に起こった事件である。

だれもが一様にいうのは、松本は反米的な意図でこれを書いたのではないか、との言葉である。これは、占領中の不思議な事件は、何もかもアメリカ占領軍の謀略であるという一律の構成で片づけているような印象を持たれているためらしい。

(中略)

私はこのシリーズを書くのに、最初から反米的な意識で試みたのでは少しもない。また、当初から「占領軍の謀略」というコンパスを用いて、すべての事件を分割したのでもない。そういう印象になったのは、それぞれの事件を追及してみて、帰納的にそういう結果になったにすぎないのである。

(「なぜ『日本の黒い霧』を書いたか あとがきに代えて」)

戦後日本史 (= 昭和史) を考察する上で GHQ に対する理解は欠かせない。GHQ は巨大な組織であり、関係する部署、人員は膨大な数に上る。元より GHQ は一枚板ではなく、各部各人の間で激しい対立が存在した。まず、チャールズ・ウィロビー (Charles Andrew Willoughby) 率いる参謀部第2部 (G2) と、コートニー・ホイットニー (Courtney Whitney) 率いる民生局 (Government Section, GS) が主要な対立軸として存在する。これは、激変する当時の世界情勢に対するアメリカ本国の諸勢力の代理戦争ともいえる。そして、この GHQ 内での摩擦の余熱が、日本において奇怪な事件を生じさせる。個々の事件とその「事情」については、とても要約することはできぬ。本書を読んでほしい、と書くより他はない。政治、軍事、外交、経済、あらゆる分野で地殻変動が起こっていた。

本書で扱われた種の奇妙な事件は全て、朝鮮戦争に集約される (事実、GHQ が日本から撤収した後には、本書で採り上げられたような性質の事件は発生しなくなった)。

これまで書いてきた一連の事件の最終の「目的」は朝鮮戦争のような極点を目刺し、そこに焦点を置いての伏線だったと云うこともできる。もっとも、米軍は最初からこの戦争を「予見」したのではあるまい。

(中略)

前にも云う通り、この「予見」の集中点が必ずしも朝鮮でなくてもよかったのである。地理的に、それはヴェトナムでもよかったし、ラオスでもよかったし、或はもっと別の地域でもよかったのだ。(略) たまたま、その条件が合致し、やりやすい場所が朝鮮だったというにすぎない。朝鮮はその「黒い栄光」に択ばれたのだ。「朝鮮は一つの祝福であった。この地か、あるいは世界のどこかで、朝鮮がなければならなかったのだ」(一九五二年、ヴァン・フリート将軍がフィリッピン代表団に語った言葉)

(「謀略朝鮮戦争」)

要するに、いずれ極東で起こるに違いない「朝鮮」に西側 (というか、太平洋を自分の庭だと自負するアメリカ) が勝利するための基地として日本は工事された、ということである。振るわれたつるはしの 1つが下山事件であり、打たれた釘の 1つが松川事件であり……、という構図だ。これは今では半ば常識的ともなった史観であるけれど、本書が発表された当時 (1960年) としては果敢なチャレンジだったはずである。

サンフランシスコ条約後、GHQ は日本を去ったが、彼らが残したレールはそのまま残った。日本は基本的に、そのレールを継ぎ足した方向に走り続ける。日本は、朝鮮戦争を契機とした高度経済成長の時代に突入し、繁栄を謳歌する。皮肉な書き方をすれば、これは一連の奇怪な事件の代償とも受け取れる。

さて、その後の日本はバブルの崩壊という (ひとまずの) 終焉を迎えるわけだが、同時に、我々は物質的に豊かになっただけで、これからの日本の将来を方向付ける何物をも築けなかったのではないかという猜疑が、国民に等しく残った。昭和という時代を実感として知る最後の世代であり、かつ、新しい局面を迎えつつある日本 (および世界) を担いつつある私達の年代はこれからどうあるべきか。本書は、その問題を考えるときに読み返されるべき名著であるといえよう。