- Book Review 2007/10

2007/10/17/Wed.

文庫版が出たので再読。『百器徒然袋 雨』に続く、榎木津礼二郎を主人公とした京極堂シリーズの中編集。収録作は、

の 3編。副題の最後 2文字が尻取りになっているのも前書『雨』と同じ。シリーズとしての特徴も『雨』の書評で書いた通り。一般人の「僕」は相変わらず右往左往し、榎木津からは奇天烈な名前で呼ばれ、下手な芝居を打たされる。このあたりのノリはむしろ『百物語』シリーズに近い。

このシリーズは他の京極作品以上に「様式」が重要視されているように感じる。要求されている制約は、『百物語』よりもずっと多い (『百物語』は時代背景や語り手となる登場人物が作品によって変化する)。恐らくこの過剰なルールが、榎木津のムチャクチャ加減をある場面では強調し、ある場面では中和している。

上手いもんだなあ。

2007/10/11/Thu.

著者の本は、以前に『陰謀の世界史』を御紹介した。非常に面白かったので本書も手に取ったのだが、期待に違わぬ大著である。

スパイは最も古い職業の 1つ (もう 1つは娼婦) と言われるが、その存在が今日的な意味で確立し、また活発になるのは、やはり第一次世界大戦以後である。本書でも、第一部を「スパイ前史」としながらも、残る第二部から第十部までを「第一次世界大戦」から「一九九〇年代」に当てている。それほどまでに、近現代史におけるスパイの役割は大きい。少なくとも、そういうスタンスで本書は書かれている。

さて、スパイがスパイとして成立するためには、まずその存在が秘匿されなければならない。ところが、それでは「スパイ史」が書けないことになる。我々がスパイというものを知っているのは、彼らが失敗し、その存在が明るみに出たからである。したがって、スパイ史とは、スパイの失敗の歴史にほぼ等しい。完全犯罪が犯罪として認識されないのと同じく、完全なスパイは目に見えてこない (そこに陰謀史観発生の土壌があるわけだが。その意味で、スパイ史と陰謀史は表裏の関係にあるともいえる)。

本書では膨大なスパイ、およびスパイを用いた作戦が、豊富な史料を元に描かれる。近年公開された政府史料で初めて明らかになった事実も多い。我々が妄想的に想定するよりもかなり広い範囲で、スパイは活躍している。意外なほどだ。同時に、スパイの人間臭いエピソードもまた興味深い。

巻末には充実した参考文献リストと索引が付く。

2007/10/10/Wed.

著者の柴田哲孝は、森達也『下山事件』に登場した「彼」その人である。『下山事件』の書評にはこう書いた。

本書は、フリーのテレビ・ディレクターである著者が、下山事件に実際に関わったという男の孫 (『彼』) に出会うところから始まる。「下山病」に取り憑かれた著者は、事件の記録を辿りつつ、『彼』の祖父が所属した組織の調査を開始する。

「彼」こと本書の著者・柴田は、大叔母から、彼の祖父が下山事件に関わっていたという話を聞く。「下山病」に取り憑かれた柴田は、親族やその遺品を中心とした独自の証言、物証によって下山事件の解明に邁進する。実際の事件の進行を追いながら次々と提示される証拠、推理は圧倒的なものがあり、まさに巻置くあたわざるといった感がある。

下山事件の実に奇妙なところは、証言が全く信用できないところにある。意図的な虚偽のリークもあれば、脅迫されての偽証もあり、詳細な事情を知らされなかった故の勘違いもある。一番始末に悪いのは、どちらも誠実な印象を受ける両者の証言ですら食い違いを見せるところである。

そもそも、なぜ著者は本書を執筆したのか。それは (著者の主張によれば)、例えば森達也『下山事件』に書かれる「彼」(= 柴田) の言が事実と違うからである。事件から半世紀以上が経過し、事件の解明のみを目的とした彼らの間ですら、「言った」「言わない」の論争がある。その意味で、下山事件はまだ続いているのだともいえる。

いみじくも、解説で櫻井よしこが以下のように書いている。

下山事件についてはすでに膨大な史料が明らかにされ、数多くの著作が世に問われてきた。にもかかわらず、事件の真相は未だ明らかにされていない。

(櫻井よしこ「解説——どの下山事件関連書よりも興奮を覚えた」)

「興奮を覚えた」という副題が興味深い。「真相が明らかにされたから素晴らしい」のではない。これはもう、むしろエンターテイメントに近い「興奮」なのである。

とはいえ、柴田が引き出した証言、導き出した推理は戦後日本史を考える上で大変貴重なものであることは変わらない。戦後の日本に何が起こったのかを、私達はまだほとんど知らないのではないか。

2007/10/04/Thu.

副題に「戦後をつくった陰の男たち」とある。本書は 5つの章からなる。

それぞれの組織・土地・時代の人脈を探った話であるだけに、夥しい数の人間が登場する。意外なところに意外な人名を発見したりして、すこぶる興味深い。肩書きだけを見れば全く無関係、あるいは正反対の立場である 2人が過去には同じ釜の飯を食っていたり、その人脈が実は現在でも強固であったり、などなど——面白い。面白過ぎて、「本当なんだろうか」とすら思えてくる。

著者はとにかく多数の人間を実際に取材して様々な証言を引っ張り出す。しかし話題が「人脈」であることもあり、その「証言」がどこまで信憑性のあるものかは判断に難しい部分もある (面白過ぎるという事実がこの疑惑に拍車をかける)。客観的な証拠となる文献や写真があるわけでもなく、実際に各証言者の話が食い違うことも多い。

もっとも、著者や証言者の話がウソだと言っているわけではない。人脈というものは多分に感情的、人間的なものを含んでおり、その人にとっては、その人脈が「そういうもの」であるという理解もできる。例えばある組織の人脈について考えたとき、その組織を愛した人と憎んだ人では、また人脈が持つ意味も異なってくるだろう。そういうことだ。

政治でも経済でも情報でも、その根本は人間どうしのやり取りであることが痛感させられる 1冊。

2007/10/03/Wed.

文庫版『ゴルゴ13』第108巻。

第373話『最終暗号』

「近代以降、暗号の作成と解読には強力な数学が必要とされた。多数の数学者が軍や政府に雇われ、暗号の仕事に携わった。暗号の研究が学問を発達させることもあったし、その逆もあった。暗号関係者の存在は、政治的理由によって隠蔽されることも少なくなかった」というのは、サイモン・シン『暗号解読』の書評で書いたことだが、そのあたりをテーマに描かれた作品。

世界中の情報を盗聴・解析するアメリカの NSA (国家安全保障局)。その力の根源は彼らが握る強力な暗号技術にある。しかし、NSA ですら解読できない「最終暗号」が、数学者・佐久によって考案されつつあった。リベラルな思想の佐久は、自らの暗号理論を軍事に転用することなく完成させたいと願い、秘密の場所で研究を急いでいた。しかし、NSA に居場所を突き止められるのは時間の問題である。そこへゴルゴが自ら護衛を願い出る——。

ファンの間では有名な、「戦術核を狙撃するゴルゴ」が拝める作品。

第374話『シャッター』

休暇のたびに写真撮影旅行に出かける、アマチュア・カメラマンのジョージ。ところが、彼がコロラドのスキー場での撮影から帰ってきた後、アマチュア・カメラマン連続殺人事件が発生する。事件を調べたジョージは、殺されたカメラマンが皆、自分と同じくコロラドのスキー場に旅行していたことを知る。ひょっとして、自分は「写してはいけないもの」を撮影してしまったのではなかったか。犯人は、それを抹消するためにカメラマンを殺害しているのではないか。

死にたくないジョージは八方に手を尽くして生存を計るが——。

第375話『S・F・Z スフォルツァンド』

いわゆる「戦中秘話」もの。

ロシアから流出した、大戦中におけるフルトヴェングラーの演奏テープを手に入れたブラウラー。彼は、その演奏が父の工場でなされたものであることに気付く。フルトヴェングラーの指揮に不自然な箇所があったこと、演奏会の主賓がヒトラーであったこと、そして、父がこの演奏の直後に自殺したことが、彼の記憶を確かなものにしていた。

テープを解析した彼は、演奏中に狙撃があったことを突き止める。果たしてヒトラー暗殺はあったのか。父の自殺との関係は——。

他の戦中秘話ものと同じく、ストーリーが非常によく練られた名作。

2007/10/02/Tue.

『ローマ人の物語』単行本第XI巻に相当する、文庫版第29〜31巻。

前巻『すべての道はローマに通ず』は、インフラストラクチャーの歴史に焦点を絞った外伝的な扱いであったから、本書は、実質的には『賢帝の世紀』の続きである。

本書では、五賢帝の最後を飾る皇帝、マルクス・アウレリウスから筆は起こされる。先々帝ハドリアヌスによって大規模な再構築が行われたローマ帝国は万全盤石となり、先帝アントニヌス・ピウス時代は目立った事件も起こらず、平和な時が流れた。ピウスは、ついにローマから離れる必要がなかったほどだ。しかしこれは、ハドリアヌスの余禄であったともいえる。

一般の人よりは強大な権力を与えられている指導者の存在理由は、いつかは訪れる雨の日のために、人々の使える傘を用意しておくことにある。ハドリアヌスが偉大であったのは、帝国の再構築が不可欠とは誰もが考えていない時期に、それを実行したことであった。

(「第一部 皇帝マルクス・アウレリウス」)

一方、ピウスやアウレリウスにはハドリアヌスほどの政治的 (というかほとんど歴史的) なセンスがなかったように思われる。少なくとも、著者はそのように考えている。

本格的な改造は百年に一度でよいが、手入れならば常に必要ということであった。この意味でのメンテナンスの必要性への自覚が、アントニヌス・ピウスには欠けていたし、マルクス・アウレリウスにも欠けていたのではないだろうか。

(「第一部 皇帝マルクス・アウレリウス」)

まるで江戸時代のような話である。果たして、アウレリウスの時代に「黒船」がやって来る。ゲルマン民族を始めとする外敵の侵入である。ローマ帝国がこれを撃退するのには、多大な時間と犠牲を払わされた。皇帝アウレリウス自身が前線に立ち、長らくそのままであった軍団の配置も変更の必要に迫られた。哲学を愛した哲人皇帝アウレリウスは、前線で病死することになる。

アウレリウスの後を継いだのは、彼の息子・コモドゥスであった。真面目で勤勉な父とは違い、コモドゥスは剣闘試合や競技会に熱中する日々を送る。政治は事実上、側近が行うといった有り様であった。最後には、動機不明の暗殺によって生涯を終える。

コモドゥスの死後、近衛軍団によってペルティナクスが皇帝に推輓される。彼は誠実ではあったが、それ故に支持基盤であった近衛軍団への優遇を躊躇した。結果、わずか 3ヶ月後に近衛軍団によって暗殺される。続いて、やはり同じく近衛軍団の推挙によってユリアヌスが皇帝の座に付くが、これを良しと思わぬ各地の軍団長が次々に皇帝への名乗りを上げる。内乱の始まりである。

最終的に、セプティミウス・セヴェルスが皇帝となる。彼がまず行ったのは、軍団兵の待遇改善であった。

おそらく、皇帝セヴェルスは、ローマ軍の強化のみを考えてこれらの政策を実施したのにちがいない。なにしろその意図ならば、帝国の安全保障を担当する兵士たちの社会的経済的待遇の改善にあるのだから、立派でしかもヒューマンな意図である。善意から発していたことは、まちがいなかった。だが、ユリウス・カエサルはすでに、二百五十年も昔にこうも言っている。

「結果は悪かったとしても、当初の意図ならば立派で、善意に満ちたものであった」

(中略)

これが、ローマ帝国の軍事政権化のはじまりになる。兵士たちがミリタリーでありつづけることに不満をもたなくなった結果、シビリアンになっての第二の人生を切り開く意欲の減退につながり、それが、ローマ社会での軍事関係者の隔離になっていったからだった。

(「第四部 皇帝セプティミウス・セヴェルス」)

皮肉ではある。

そして、この後のローマ帝国は、歴史家の言う「三世紀の危機」に突入する。魚は頭から腐る、と言われるが、ローマ帝国も、「頭」から先に腐って行くのだった。

(「第四部 皇帝セプティミウス・セヴェルス」)