- 『脳と仮想』茂木健一郎

2007/04/16/Mon.『脳と仮想』茂木健一郎

英題は "The Brain and Imagination"、副題に 'Immersed in the premonition of things to come' とある。本書は 2005年に小林秀雄賞を受賞した。

「仮想」とは何だろう。これは極めて難しい質問である。確固たる「現実」に対して「仮想」があるのか? テレビゲームを批判する人達はそう思っているのかもしれない。しかし我々は知っている。ゲームという体験が限りなくリアルであること、あるいは現実というものがフェイクであることを。そういうことが見えやすい世の中になってきた、ということもある。

我々の知覚や意識が「培養された脳」のものである、という疑念を完全に払拭することはできない。それを考えているのも脳だから、これはトートロジーでもある。恐らく、確かな「現実」というものはあるのだろう。しかし我々はそれを、「脳」という器官を通してのみしか把握することはできない。全ての現実は脳のどこかで適当に処理される。我々が体験するのは、脳を経た事柄だけである。だからこれを「仮想」といっても間違いではない。

その意味で、他人を理解するのは不可能だ。ただ、彼の仮想と私の仮想はほぼ同じであろうという自然な推測のもと、私の仮想として彼の仮想を忖度することだけが可能である。

私が見る赤と、他人が見る赤は同じか? 絶対的な「赤」という色が現実としてあるのか。あるのかもしれない。しかし、それは仮想の仕方、つまり脳の働きによって異なってくる。犬が色盲である事実を考えれば良い。牛も色盲である。だから闘牛場の牛は、闘牛士が振り回す紅い布の色に興奮しているのではない。赤い色に牛が興奮するという誤解は、我々が牛の仮想を私の仮想として推測していることに由来する。仮想の方法が、つまり脳が異なれば、両者の間で理解は断絶する。

一方で、仮想は受け継がれもする。我々日本人が「蛍」という仮想に抱く様々なイメージには、和泉式部が和歌に託した仮想も含まれるし、小林秀雄がその光に母の幻影を見たという仮想も含まれる。そういう系譜があって、我々は「蛍」という仮想に何らかのクオリアを見出す。日本人にとっての蛍は、アメリカ人にとっての firefly と「現実」としては同じものだが、「仮想」としては全く違う。

我々は仮想に埋もれて生きている。私なりの言い方で書けば、我々は極めてリアルな世界に住んでいる。住所は脳だ。それまで疑えば哲学になってしまう。脳を最終的な土台とする、せざるを得ないところにサイエンスの限界がある。しかし、何かを見るには大地に足をつけて立たねばならぬ。