- 『超芸術トマソン』赤瀬川原平

2007/01/03/Wed.『超芸術トマソン』赤瀬川原平

1980年代の香りがする懐かしい「お遊び」である。御存知の方も多かろうが、あらましを書いておく。

「超芸術」とは何か。

芸術とは芸術家が芸術だと思って作るものですが、この超芸術というものは、超芸術家が、超芸術だとも何とも知らずに無意識に作るmのであります。だから超芸術にはアシスタントはいても作者はいない。ただそこに超芸術を発見する者だけがいるのです。

「超芸術トマソン」とは「不動産に付着していて美しく保存されている無用の長物」と定義される。廃棄されているようだが、そうではなく、人の手が加えられている。何のためか。理由がわからない。あれこれと想像する。じっくり見ていると、何やら造形的にも面白い。あるいはその場を含めた「あり方」に奇妙な感慨を覚える。そういう「物件」の総称である。

文字で書いてもよくわからぬと思う。詳しくは本書に掲載されている多数の写真を御覧になって頂く他はない。ネット上でも面白い写真がたくさん転がっている。

さて「トマソン」とは何か。

一九八二年、ジャイアンツの四番バッターの座にいたトマソン選手です。扇風機というような失礼なアダ名を付けられながら、しかしよく考えたらその通りです。打席に立ってビュンビュンと空振りをつづけながら、いつまでもいつまでも三振を積み重ねている。そこにはちゃんとしたボディがありながら、世の中の役に立つ機能というものがない。それをジャイアンツではちゃんと金をかけてテイネイに保存している。素晴らしいことです。いや皮肉ではない。真面目な話、これはもう生きた超芸術というほかに解釈のしようがないではありませんか。

で私たちの追求する物件は「トマソン」と命名することにしました。

ムチャクチャである。古い本 (本書の初版は 1985年) によくあることだが、今の基準からするとかなり大胆なことが書いてある。本筋とは関係ないが、そういうところが奇妙におかしかった。

例えば「物件」の所在地や、写真の投稿者 (もちろん実名) の住所 (番地まで!) が、何の臆面もなく掲載されている。個人情報の漏洩っていうレベルじゃねえぞ。そもそも「物件」の大半が私有物であり、現在も使用されているものである。その写真を勝手に載せることだけでも相当のものだ。21世紀の現在では考えられぬ企画である。

1例を挙げる。建物が取り壊されたとき、水着の日焼けのような跡が隣家に残ることがある。これは実物が消え去った後の残像であり、立派な「トマソン」である。それは良い。問題なのは、このようなトマソンの一群を「原爆型」とするネーミング・センスである。

さっきの焼印といい、これといい、これらは広島を思い出します。原爆タイプという名前をつければ、あまりにもエグイでしょうか。原爆の日に、広島市内の銀行の石段に坐っていた人の影がそのまま焼きついていた。あれです。あれと同じ原理です。

爆笑である。もはやトマソンの写真よりも、このような記述の方が圧倒的に面白くて困る。昔は大らかだったんだなあ。