- 『ネジ式ザゼツキー』島田荘司

2006/10/13/Fri.『ネジ式ザゼツキー』島田荘司

島田荘司御大の御手洗もの。

スウェーデンはウプサラ大学で教授を勤める御手洗の許に、友人のハインリッヒが興味深い記憶喪失の患者を連れてきた。彼の名はエゴン・マーカット。30年も前に何らかの事故に遭ったと思われるが、それ以後、彼の記憶は正常に機能していない。彼の「過去」は 1970年代半ばで止まっている。そんな彼の脳が、唯一「物語」として保持している「記憶」がある。マーカットが童話として書いた、『タンジール蜜柑共和国への帰還』だ。

その童話の世界は奇怪である。巨大なタンジール蜜柑の樹上に家が建ち並び村をなす。住人は羽のはえた妖精や、足が車輪となった熊、鼻や耳を殺ぎ落とされた老人。世界を支配していると思われる、「サンキング」の存在。そのような世界の中で、著者のマーカット自身と思われる「ぼく」は、右腕を失った妖精・ルネスとともに、彼女の腕を取り戻す冒険に出かける。童話の最後、巨大な地震が起こる。地震の震動で、眠っていたルネスの首がゆるゆると回り、ついには頭が身体から外れて床をコロコロと転がる。よく見ると、ルネスの首はネジになっている。地震の震動でネジが外れたのだ。

という、よくわからない物語である。

手記は証拠になるのか

この内容を、ハインリッヒは「記憶障害者の妄想」といい、御手洗は「事実を非常に論理的に描いたもの」と把握する。そして次々に物語の謎を解き明かしていく。このへんのノリは『眩暈』に似ている。そもそも御手洗は、というか島田御大は、作中に物語やら手記やらを挿入し、そこから背後にある事件を読み取るのが好きである。『占星術殺人事件』しかり『異邦の騎士』しかり、『奇想、天を動かす』『魔神の遊戯』『暗闇坂の人喰いの樹』『水晶のピラミッド』『アトポス』などと思い付くままに書いてみたが、ほとんどこの手法である。

近年の御手洗 (島田御大) は脳科学に興味があるようで、やたらと手記から「記憶」を読み取る。物証はほとんど問題にされない。そこで俺は疑問に思うわけだ。特に、今回のような「記憶喪失もの」の場合、御手洗が提示する「過去」が「事実」であるという担保はどこにある? 御手洗の指摘によって患者は「記憶を取り戻す」。その「記憶」が事実であることは、「先生、思い出しました。確かにそうだった」という患者の言葉によって保証されるが、本当にそれだけで良いのか。

御手洗が提示した「それらしい」「過去の風景」を「自分の記憶」だと患者が「思い込んでしまった」。京極夏彦が使いそうな、そういう可能性はないのか。もっとも今回は、「沈黙を守っていた関係者が口を開く」ということで、最低限の客観性は示されているけれども。

御手洗や島田御大はポーやドイルを敬愛しておられるが、デュパンにしろホームズにしろ、異常なまでに物証にこだわる一面がある。御手洗はこの性質が希薄である (だから彼が探偵として劣っている、というわけではないが)。しかしどうも危険だ。島田御大はこの問題に関して無意識でやっているとしか思えない。最近の御手洗ものにはハラハラとさせられるのである。