副題に「数学的体系のあゆみ」とある。
ゲーデルの不完全性定理の初歩的な入門書である。不完全性定理を理解するにはまず、記号論理学に基づいた数学基礎論、すなわちヒルベルトの公理論を知っておかねばならない。ヒルベルトについては、既に『幾何学基礎論』を紹介した。公理主義はあらゆる数学体系の基礎をなすものだが、公理論が意識される前から発達していた (というよりも、公理論そのものの基盤となった) 系に、ユークリッド幾何学がある。そもそも、ヒルベルトが公理主義を適用するに相応しい題材として選んだのも幾何学であった。
したがって本書は、ユークリッド幾何学の歴史から始まる。ユークリッド幾何学はこの世界の近似でも何でもなく、ある公理群から演繹的に導かれた体系に過ぎない、というのが公理主義の立場である。適切な別の公理に基づけば、非ユークリッド幾何学が展開される。ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学は互いに矛盾するわけではない。出発点である公理系が異なるだけである。というのがポイントだ。
続いて集合論の歴史が語られる。集合論は非常に強力なツールではあるが、「無限の」集合を扱い出すと途端に怪しくなる。加算無限と非加算無限といった、性質の異なる「無限」が現れたりする (これ自身は矛盾でも何でもないが)。問題なのは、カントール集合と呼ばれるパラドクスである。
どんな集合 X が与えられても、それより大きい集合 Y が存在する。
これはカントール自身が証明した定理だが、このとき、集合 X を「すべてのものの集合」と置いてみると、深刻な矛盾が発生する。これによって集合論は破滅の危機を迎えたが、別の側面からいえば、新たな数学の基礎付けを促すものでもあった。ここから、現代数学に通じる厳密な基礎が数学に与えられる。例えば、上のカントール集合におけるパラドクスは「自己言及」によるものである、という共通の理解が成立する。「自己言及」の最も簡単な命題の 1つは、
私は嘘つきだ。
というものがある。この命題が真か偽かは決定できない。こういう文を数学で使ってはならない。また、集合には階層がある、などといったルールが整備され始める。そういった中で、直感主義だとか排中律の問題が出てくるわけだが、こうして数学と論理学は急速に接近していく。
このような基礎の課題が出された後、今度は証明そのものを形式化しようという動きが出てくる。数学の証明は論理的な演繹によるが、その「論理的な」という部分を機械的に処理できるように記述しよう、というのが形式主義である。これは公理主義と密接な関係がある。幾何学において「点、線、面」を「テーブル、椅子、ビールコップ」と呼んだところで幾何学的には何ら変わらない、という考えを証明方法にまで敷衍したのが形式主義である。
論理的な演繹とはすなわち、命題の関係の機械的な操作ともいえる。例えば、「命題 P が真かつ命題 Q が真なら命題 R が偽」を、
P ∧ Q ⇒ ¬R
と書くやつである。正しい推論、すなわち命題関係において許される操作をこのように公理化することによって、コンピュータもロジックを把握できる。こうして、全ての数学の基礎は論理公理系と、その推論規則群に置かれるようになった。
ここでようやくゲーデルが登場する。300頁未満の本書において、233頁になってようやくゲーデルである。準備が大変である。
ゲーデルが考えたのは、自然数論を含む無矛盾の体系 Z について、である。俺が理解した範囲で、証明のあらましを書いておく。
- 体系 Z における全ての記号 (を含む記号列) を一意の自然数 (ゲーデル数) に置き換えることができる。
- 自然数 n と対応するゲーデル数を、関数 g (n) で表す。
- 「q は体系 Z の中で証明できる論理式のゲーデル数である」という論理式を Provable (q) とする。
- Provable (q) 自体も体系 Z の中で具体的に構成できる。
- ある論理式 P (x) のゲーデル数を p とする。
- 「変数 x」のゲーデル数を X とする。
- 「P (x) の変数 x に自然数 n を代入した論理式のゲーデル数」を表す関数 sub (p, X, g (n)) を考えよう。
- もちろん、sub (p, X, g (n)) も体系 Z 内で具体的に構成できる。
- ここで、sub (x, X, g (x)) を考えよう。
- ¬Provable (sub (x, X, g (x))) を G (x) (ゲーデル文) とする。
- 当然、G (x) も体系 Z 内の論理式である。
- G (x) のゲーデル数を h とする。
- G (h)
⇔ ¬Provable (sub (h, X, g (h))
⇔ sub (h, X, g (h)) は証明できない
⇔ G (x) の変数 x に h を代入した論理式は証明できない
⇔ G (h) は証明できない
したがって、ゲーデル文は形式的に正しいが証明できない。無矛盾の体系の中には、このような証明できない論理式 (つまり命題) が存在する。これが第一不完全性定理である。順を追って行けば、それほど難しいことはない。まァ、これも長い前説があってのことだが。という本書の構成の意図が、やっとここでわかってくる。
第二不完全性定理については簡単に書いておく。
体系 Z が無矛盾ならば、Z の無矛盾を Z の中で証明できない
これも強烈な定理である。証明に興味がある方は、本書を読んでほしい。
竹内薫、茂木健一郎・訳。副題に「心と意識の科学的基礎をもとめて」とある。原題は『Beyond the Doubting of a Shadow』。
トンデモ本なのかどうか、どうにも判断がつきかねる。
ロジャー・ペンローズは一流の数理物理学者である。ホーキングとともに、ブラック・ホールの特異点定理を証明したり、「ペンローズ・タイル」として有名な非周期的な幾何学の研究でも功績がある。そのペンローズが、「心」や「意識」に「革命的な」科学的方法でアプローチする。彼は「心」や「意識」は物質的基盤を持つ、というスタンスを堅持する。精神を神秘的なものとは捉えていない。機械論的な立場といって良い。
まず大前提として、物理学に「革命」が必要だと彼は説く。マクロな相対性理論と、ミクロな量子論はいまだに融合していない。世界を正しく理解するには統一された理論が必要である。それは我々にとって「革命的」であるだろう、と彼は予想する。俺もそう思う。
理論物理学の基盤は数学である。ところが数学 (を含むあらゆる論理体系) にはゲーデルの不完全性定理が成立する。つまり、どのような系にも証明不可能な命題が存在するわけだ。そこでじっくりと考えてもらいたいのだが、我々はゲーデルの不完全性定理が「正しい」ことを知っている。奇妙な話である。もちろんこの記述にはトリックがあるのだが、どちらにせよ我々の精神は、また一段とメタなところにあるらしい、という想像はつく。
このような精神活動を記述する系が存在するのか。「革命」が必要なくらいだから、そんなものはないわけであるが、候補となる理論は存在する。それが量子力学である。量子力学において、粒子の性質は観測した瞬間に決定する (観測問題)。問題なのは、粒子の振る舞いは観測するまで収縮しないのか、それとも観測するしないに関わらず勝手に収縮するのか、ということである。これは世界観の問題である (だって観測できない!) が、現在主流となっているのは前者 (コペンハーゲン解釈) である。
アインシュタインが量子力学に今一つ良い顔をしなかったのは、その世界観が彼の美学に反したからであろうといわれている。彼が相対論で宇宙定数を導入してしまったのも、その美学ゆえ、という面もある。そしてペンローズも、アインシュタイン型の世界観の持ち主だった。彼は、量子は観測に関わらず収縮する (客観的収縮) というスタンスをとる。
さて、どうも「心」と「量子」の結びつきが怪しい。三段論法で書くと、
という、やや我田引水な印象がある。かといって、心の理論的根拠を相対論に、ましてやニュートン力学に求めるわけにはいかないのだが。だから、「心の理論となるべき物理理論は量子論」という主張に対して、明解に反論はできない。
ここまでは、まだ良い。では、具体的に生命のどこで、そのような量子効果を元にした「精神」が発露しているのか。それに答えたのが、『意識は、マイクロチューブルにおける波動関数の収縮として起こる』という論文である。タイトルを見ただけで、醸し出される物議が想像できる。実際、相当コテンパンに叩かれたらしい。
マイクロチューブル (microtuble) は細胞骨格を形成しているタンパク質複合体である。チューブリンというタンパク質が重合し、中空のパイプ状になったものがマイクロチューブルだ。細胞質の支持・伸長、あるいは細胞内輸送のための構造である、というのが生物学的な理解である。
この中空のマイクロチューブルの中で、量子効果による「意識」が発生する、というのがペンローズの主張である。訳者の茂木 (脳科学者) も解説で書いているが、さすがにこの主張はムリがある。反論点としては、
ペンローズには悪いが、意識がマイクロチューブルで発現することはなかろう。
感心した点もある。「生物学は量子効果が出るようなスケールの研究を行っていない」という指摘がそれである。確かにそうだ。生物学を擁護するならば、「そんな効果を見るには、細胞は複雑過ぎる」といえる。ただ、そんなことは誰も考えていない、というのが本当のところではないか。
生命現象に量子レベルの現象が関わっているか? これはまだ、誰にもわからない。「意識の生成には量子効果が関わっている」という主張自体は否定できない。しかし仮にそうだとしても、具体的なイメージが湧いてこない。
また、意識を「計算可能性」から論じた部分は面白かった。コンピュータに人間がやっているような判断をさせようとすると、至るところで計算爆発が起こる。さらに、人間の思考は、チューリング・マシンの停止問題を難なく回避しているようにも思える (つまり、コンピュータとは異なる原理で動いている可能性)。ここにもやっぱり、無限やゲーデル問題が関わってくる。それからクオリアの問題。「赤の『赤らしさ』とは何か?」。ニューロンの配線をチップ上で再現したとして、これらの課題がクリアされるだろうか。これも、誰にもわからないことだが。
結論はちょっと怪しいかもしれないけれど、鋭い問題提起に溢れた 1冊と読めば面白い。
最初の頃は面白く読んでいた土屋教授のエッセイだが、こうも同じネタばかりだとさすがに飽きてくる。特に本書は、ほとんどが女性に関するいつものエッセイであり、もはや食傷気味。
いしいひさいちの漫画が多数載せられており、これは面白かった。
「奇遇ですなあ」の「奇遇」ではない。「奇偶」である。
「偶然」をテーマにした、極めて複雑な小説である。舞台は、愚劣で悲惨な原発事故が起き、カルト宗教が現れ、社会に陰惨な事件が多発するという、何かが壊れてしまったような日本。アメリカ同時多発テロが起きた年のことである。
スランプ気味の推理作家・火渡雅は、取材で出かけたカジノで、奇跡的な出目で大勝負を繰り広げる男達と出会う。カジノからの帰路、火渡は偶然にも、先ほどのカジノで出会った男と再会する。ところが男は、火渡の目の前で奇妙な事故死を遂げる。その後、火渡は片目の視力を失い、徐々に精神の均衡を逸していく。同時に、彼の周囲で奇妙な「偶然」が重なるようになった。
極めて発生確率の低い事故で謎の男が倒れた、まさにその場所で、火渡はまたしてもあり得ないような事故に遭遇する。現場にはゾロ目に揃った 3個 1組のサイコロが 2組。それは、カジノの夜に見たゾロ目であり、また、最初の事故でも現れたゾロ目であった。奇妙な偶然に取り憑かれた火渡は、友人の精神科医、病院で同室となった老人と、「偶然」に関する形而上学的な議論を重ねる。そして、さらなる偶然が、彼を新興宗教「奇偶」へと導く。易をベースにしたその教団で、「偶然」に関する考察は続けられる。ついには教団内で不可解な密室殺人事件が起こるのだが……。
基本的な構成は火渡自身の手による手記、という体裁をとっている。探偵小説とも読めるが、事件の謎解きよりも、事件全体、あるいは火渡を包み込む「偶然」に関する議論が大変に多い。題材として、ゲーデルの不完全性定理、量子力学の不確定性原理、ユングのシンクロニシティ、中国の道教、ギャンブルにおける確率論などが引き合いに出される。ミステリーではよく採り上げられる小道具だが、これらを組み合わせ、登場人物達は「偶然」の正体へと迫っていく。
言われてみれば確かに、「偶然とは何か」を定義するのは困難である。同様に「必然とは」「因果とは」「運命とは」という問題も立ち上がる。果たして、事件を覆う偶然の正体とは。
小説としての手法も凝っている。火渡の手記と現実を行き来するあたりは、笠井潔の「天啓」シリーズを思わせるメタ・フィクションだし、不確定性原理による世界認識は竹本健治や京極夏彦を彷彿とさせる。一つだけここに書くならば、「偶然」の解釈とは、他ならぬ「私」と「世界」の関わり方によって顕現する問題であり、これは小説、特に探偵小説における記述という課題と密接な関係がある。
このテーマに取り組み続けた山口雅也ならではの 1冊だと思う。傑作。
島田荘司御大の御手洗もの。
スウェーデンはウプサラ大学で教授を勤める御手洗の許に、友人のハインリッヒが興味深い記憶喪失の患者を連れてきた。彼の名はエゴン・マーカット。30年も前に何らかの事故に遭ったと思われるが、それ以後、彼の記憶は正常に機能していない。彼の「過去」は 1970年代半ばで止まっている。そんな彼の脳が、唯一「物語」として保持している「記憶」がある。マーカットが童話として書いた、『タンジール蜜柑共和国への帰還』だ。
その童話の世界は奇怪である。巨大なタンジール蜜柑の樹上に家が建ち並び村をなす。住人は羽のはえた妖精や、足が車輪となった熊、鼻や耳を殺ぎ落とされた老人。世界を支配していると思われる、「サンキング」の存在。そのような世界の中で、著者のマーカット自身と思われる「ぼく」は、右腕を失った妖精・ルネスとともに、彼女の腕を取り戻す冒険に出かける。童話の最後、巨大な地震が起こる。地震の震動で、眠っていたルネスの首がゆるゆると回り、ついには頭が身体から外れて床をコロコロと転がる。よく見ると、ルネスの首はネジになっている。地震の震動でネジが外れたのだ。
という、よくわからない物語である。
この内容を、ハインリッヒは「記憶障害者の妄想」といい、御手洗は「事実を非常に論理的に描いたもの」と把握する。そして次々に物語の謎を解き明かしていく。このへんのノリは『眩暈』に似ている。そもそも御手洗は、というか島田御大は、作中に物語やら手記やらを挿入し、そこから背後にある事件を読み取るのが好きである。『占星術殺人事件』しかり『異邦の騎士』しかり、『奇想、天を動かす』『魔神の遊戯』『暗闇坂の人喰いの樹』『水晶のピラミッド』『アトポス』などと思い付くままに書いてみたが、ほとんどこの手法である。
近年の御手洗 (島田御大) は脳科学に興味があるようで、やたらと手記から「記憶」を読み取る。物証はほとんど問題にされない。そこで俺は疑問に思うわけだ。特に、今回のような「記憶喪失もの」の場合、御手洗が提示する「過去」が「事実」であるという担保はどこにある? 御手洗の指摘によって患者は「記憶を取り戻す」。その「記憶」が事実であることは、「先生、思い出しました。確かにそうだった」という患者の言葉によって保証されるが、本当にそれだけで良いのか。
御手洗が提示した「それらしい」「過去の風景」を「自分の記憶」だと患者が「思い込んでしまった」。京極夏彦が使いそうな、そういう可能性はないのか。もっとも今回は、「沈黙を守っていた関係者が口を開く」ということで、最低限の客観性は示されているけれども。
御手洗や島田御大はポーやドイルを敬愛しておられるが、デュパンにしろホームズにしろ、異常なまでに物証にこだわる一面がある。御手洗はこの性質が希薄である (だから彼が探偵として劣っている、というわけではないが)。しかしどうも危険だ。島田御大はこの問題に関して無意識でやっているとしか思えない。最近の御手洗ものにはハラハラとさせられるのである。
副題は「宗教と日本人」。相変わらず希有壮大である。
司馬遼太郎の対談 (鼎談) 相手は、
の各人。特に立花隆との対談が面白かった。当時、立花は『宇宙からの帰還』の中で、宇宙体験の前後で宇宙飛行士の人生観や哲学が変化するケースが多い、ということを発表したばかりだった。『空海の風景』を書いていた司馬は、「金星が口に入ったときに空海も宇宙を感じた」と応じる。スケールのデカい話である。
中村幸四郎・訳。原題は "Grundlagen der Geometrie"。
公理論的方法を展開していたヒルベルトが、その手法をユークリッド幾何学に適用し、厳格な数学的基礎を与えたのが本書である。公理主義を俺の勝手な解釈でまとめるならば、
となる。幾何学では古くから行われていた方法だが、実は算術などでは生成的に系が発展した歴史が長い。幾何学のような形式的公理主義を、あらゆる数学分野に適応しようと試みたことにヒルベルトの功績がある。
さて、公理には次の 3つの性質が要求される。
問題は「完全性」である。これには色々な解釈があるらしいが、訳者の筆による解説によれば、「構成元素の集合が与えられた公理を全部成立せしめる限りでは、もはやこれ以上拡大不可能なることを意味する」。とにかくヒルベルトは、全ての数学にこのような公理群を与え、完全なる数学的基礎を築き上げようとした。この思想については、併録されている『数の概念について』『公理論的思惟』で触れることができる。
この公理主義に基づいたのが、有名なヒルベルト・プログラムである。皮肉なことに、このプログラムから、ゲーデルの「不完全性定理」が現れ、ヒルベルト・プログラム自体を粉砕してしまうことになるのだが。
公理において重要なもう一つの事柄は、それが単なる記号の論理的な結びつきでしかない、ということだ。例えば幾何学において、点、線、面という要素がある。しかしこれは現実の点、線、面とは異なる。幾何学の点は面積を持たず、線には幅がなく、面には厚みがない。しからば、幾何学の点、線、面は「理想的な」点、線、面であるのか?
違う、というのがヒルベルトの考え方だ。それはあくまで記号であって、別に点とか線という名称で呼ぶ必要はない。点、線、面を、「テーブル、椅子、ビールコップ」と呼んだところで、幾何学が成立しなくなるわけではないからだ。点とか線とかは、恣意的に付けられた名前でしかない。本質的なのは、定義された記号の性質と、その論理的な結びつきだけである。これはもはや抽象数学、いや、記号論の世界だ。事実、この後のヒルベルトはその分野の研究を進めることになる。
本書は幾何学の本ではあるが、それは公理の一つの現れ方に過ぎないともいえる。本書の中で証明される多数の定理を理解できなくとも、そのような思考法に触れるだけで意味があると思う。
「整数論の源流」と副題にある。ちくま学芸文庫の青表紙の 1冊である。今気付いたのだが、このシリーズにはシンボル・マークがあるようだ。銀色の「∞」記号があり、左の円の中に "Math &"、右の円の中に "Science" と書いてある。"Math & Science"。良いシリーズだと思う。
本書では、フェルマーの大定理と、それを解くために開発された様々な数学的手法の解説が主となっている。「フェルマーの大定理"史"」といって良いかもしれない。本書の初版は、アンドリュー・ワイルズによって大定理が証明される以前に著されたので、デカルト、パスカル、クンマーに関する記述が特に多い。ワイルズの証明が発表されてからの第2版では、楕円曲線、フライ曲線、谷山予想に関する記述が増補されたという。本書の底本は、ワイルズの証明が完璧に成された後で出された第3版である。
「目は脳の出店」と副題にある。発行レーベルは「だいわ文庫」というのだが、初めて目にする文庫である。
内容は複数の講演を起こしたもので、主題自体は既刊の本で述べられているものが多い。
個人的な思い出を書く。確かある年の生物物理学会だったと思うが、一般市民の公開講座で養老孟司が講演しているのを聴いたことがある。スライドもメモもなく、単なるホワイトボードに「脳」だとか「身体」という文字を書きながら、淡々と話していた。頭の良い人の常で、大層早口ではあったが、言い淀みがほとんどなかったのが印象的だった。練習したスピーチでも、大抵は「あー」とか「えー」とかいう間合いが入るのが普通である。
講演録や対談集では、この手の「あー」「えー」はもちろん削除される。話し言葉もある程度、書き言葉へと編集される。が、俺の記憶に照らし合わせるならば、養老孟司はほぼこの講演録そのままに話している、と思って差し支えない。そんなことを思い出しながら本書を読んだ。
「美術館がもっと楽しくなる」と副題にある。『赤瀬川原平の名画読本』、『名画読本 日本画編』の続編である。
本書に登場するのは近代絵画である。
印象派までは、ふつう一般のお稽古ごとにも重なる世界で、新しさとかオリジナリティといっても、それはほんの茶匙一杯程度の、わずかなものであった。それが印象派以後、絵のリニューアルと自我の膨張とが加速しながら、絵の表現はぐいぐい変化、発展、破砕されながら、現代美術における絵の「消失」へと向かう。
この本に出てくるのは、ちょうどその膨張がぐいぐいはじまった時代の、いちばん美味しい、いちばん面白い、いわば活劇の場面の美術史である。
(「はじめに」)
タイトルにもある通り、取り上げられている名画は全て日本の美術館にある。紹介されるのは以下の 15作。
巻末には、それぞれの絵を所蔵している美術館の簡単な紹介まで付されてある。美術館に足を運びたくなる 1冊。
『ローマ人の物語』単行本第X巻に相当する、文庫版第27〜28巻。
この巻は他から独立しており、王政、共和制、帝政を通じてローマが構築したインフラストラクチャーについて述べられている。各種インフラはハードとソフトに分類され、ハード面の成果として街道と水道が、ソフト面の功績として医療と教育が、主に記述の対象となっている。
本の構成もいつもと違い、まず、巻頭と巻末の豊富な口絵が素晴らしい。写真で見られるということは、それが 2000年もの時間を越えて存在している、ということでもある。そこに驚く。ローマのインフラの特徴は、まず耐久性であり、そして持続的なメンテナンスにあった。ハード面に関しては、建設から維持までが「公」の仕事であると認識されていたのがローマである。したがって、街道も水道も基本的に無料で利用できた。採算は度外視。この方針の先鞭をつけたのが、アッピウス・クラウディウスである。
一方で、医療と教育は「自由市場」であった。ローマには公の病院も学校も存在しない (戦地の軍病院は別だが)。かといって、軽んじられていたわけではもちろんない。医師と教師にはそれなりの特典が与えられていた。この制度はユリウス・カエサルによって創始された。
ハードとインフラ、両者の対比が面白い。ローマ人は、インフラを「人間らしい生活をおくるためには必要なこと」と考えていた、と著者はいう。要するに、それが文明であろう。ローマのインフラの質の高さは、ローマ文明の偉大さを如実に示している。