- Book Review 2005/09

2005/09/19/Mon.

文庫版が出たので再読。榎木津礼二郎を主人公とした京極堂シリーズの中編集。収録作は、

の 3編。副題の最後 2文字が尻取りになっているのも面白い。どうでも良いことだが。

探偵小説における関係性

3作品とも、ひょんなことから事件 (というか榎木津) に関わることになってしまった「僕」の一人称で語られる。「僕」は優柔不断ではあるけれども、強烈な個性もない平凡な常識人である。彼の視点を通じてみると、榎木津や中禅寺を中心とする「一味」や、彼らが関与する「事件」がいかに無茶苦茶なものであるか、という点が強調される。中禅寺ではなく榎木津を主人公に据えたのも、恐らくこのような作品の枠組みと無関係ではない。意識的なものであろう。

京極夏彦の作品において、「関係性」は常にテーマと密接に絡み合う。そもそも、探偵小説は「関係性の小説」であるといっても良い代物ではある。京極作品が果たして探偵小説なのか、という問題は棚上げするが、彼が関係性について無自覚でないことは一読すればわかる。

探偵小説では、少なくとも前半で事件の真相が語られることはない。つまり、作品内の各事象の関係性は伏せられたまま物語が進む。そして、後段で真実が明らかにされる。すなわちそこで、真相と、これまで表層的にしか見せられなかった事柄が新たな関係性を結ぶ。この二つを結ぶのが探偵役のロジックであるわけだ。また、事件が真相に至るまでに、読者はどこまでの情報をヒントとして与えられたかという、「読者と小説」の関係性もある。この関係性に注目した探偵小説は限りない。京極夏彦も『姑獲鳥の夏』において、この関係性を新たに脱構築・再構築したことは、彼の読者ならば誰でも知っていよう。

……とまあ、そのようなことを考えながら再読してみた。「他者の記憶が視える」という榎木津の能力は、関係性の問題に徹底的な破壊をもたらす。そこに注目して本書を読んでみるのも面白い。ま、一つの提案ということで。

2005/09/10/Sat.


『ローマ人の物語』単行本第VII巻に相当する、文庫版第17〜20巻。『ローマ人の物語 パクス・ロマーナ』の続刊である。

本書では、初代皇帝アウグストゥス以降の皇帝たち、つまり、2代皇帝ティベリウス、3代皇帝カリグラ、4代皇帝クラウディウス、5代皇帝ネロの生涯と業績が描かれている。およそ 1人につき 1分冊という分量。彼らは本当に悪名通りの人間であったのか、塩野の筆はあくまで冷静である。

ティベリウス

神君アウグストゥスから皇位を継いだのは、彼の娘婿であり、長年に渡って帝国の治世を助けてきたティベリウスであった。彼の職責は、アウグストゥスから受け継いだ帝国を盤石にすることであり、彼はそれを完璧にやり通した。言い換えれば、新しく派手なことは何もしなかった。これはよほどの根性がいる作業であるが、他者からは理解されにくい。

不幸なことに、彼は民衆受けする天性のタレントを持たず、またその方面での努力も行わなかった。それでも、ローマ世界の平和は彼の手腕によって保たれていたので、大した問題が勃発することもなかった。ところが、ティベリウスはその治世の最後の 10年、カプリ島に隠遁してしまう。引退ではない。カプリ島から元老院に書簡を送ることによって、帝国全土を支配し続けたのである。言い換えれば、そのような方法が可能になるまでに、ローマの平和は確立されていたのだった。

このような姿勢が元老院と民衆からウケなかったのは当然である。人々は刺激を求めていた。民衆が「平和に倦む」という、現代日本にも通じる状況下でティベリウスは世を去る。毒殺ではないかという噂も流れたようだが、塩野は「老衰による自然死であったと思う」と書いている。

ローマ帝国は、(中略) カエサルが企画し、アウグストゥスが構築し、ティベリウスが盤石にした。

この後に即位したのが若きカリグラである。

カリグラ

「カリグラ」とは「小さな軍靴」という意味の愛称である。彼の父、ゲルマニクスは 3代皇帝の最有力候補であったが、若くして死んでいる。そのため、ゲルマニクスの三男であるカリグラが即位した。彼の愛称は、父ゲルマニクスとともに幼年期を過ごしていた時分、ライン河のローマ軍団が付けたものである。カリグラは、ライン軍団のマスコットであった。

このエピソードが如実に示す通り、カリグラにはティベリウスにはないタレントがあった。その上、若い。皇帝位を継いだとき、彼はまだ 24歳であった。

若い皇帝が行った唯一のことは、人気取りである。彼は民衆に人気のなかった先帝ティベリウスを反面教師としたのだ。皇帝主催の催しが頻繁に、そして莫大な額を浪費して開かれた。結果、ローマ帝国の財政は傾き、放置された外交問題は悪化した。そして彼は暗殺される。即位後、わずか 3年と 10ヶ月であった。

カリグラを暗殺したのは、彼の父ゲルマニクスを敬愛してやまない近衛軍団であったというのだから、いかにカリグラが見放されていたかということがわかる。カリグラを消した軍団が、「インペラトール!」の歓呼を浴びせて皇帝に担ぎ上げたのは、クラウディウスという 50歳の男であった。カリグラの叔父である。

クラウディウス

クラウディウスは若年より身体が弱く、歴史の著述をして日々を送っていた。生い立ちゆえ、戦略にこそ疎かったものの、彼の中で育まれていた歴史意識は、ローマ帝国を維持するのに必要な政治を行う上で非常に有用であった。

クラウディウスの問題は、女性関係である。とはいえ、異様に女性に興味を持っているわけではない。その正反対である。それゆえ、彼の妻達は典型的な「悪女」であり、彼女達を悪女のまま放置してしまったがために、クラウディウスはその評価を落としてしまう。もったいない話である。

しかも、話は「もったいない」では済まされないまでにエスカレートする。情けない夫ではなく、自分の息子を皇帝にしようと考えた妻のアグリッピーナによって、クラウディウスは毒きのこを食わされて殺される (毒殺の真偽は定かではないようだが)。まじめだが浮かばれない男であった。彼の皇位を襲ったのは、アグリッピーナの息子 (連れ子であって、クラウディウスの息子ではない)、ネロである。

ネロ

ネロとカリグラはよく似ている、というのが俺の感想である。人を惹き付ける魅力があり、人がどうすれば喜ぶかも知っている。頭も悪くない。ただ、「皇帝とは何であるか」を理解していなかった、あるいは、理解しようとしなかった。

皇帝になったとき、ネロはまだ 16歳であった。「能力のある成熟した男に国政を一任する」というのが、ローマ皇帝の「建前」であった(塩野はそれを「デリケートなフィクション」と表現する)のだが、もはやその原則も崩れ始めている。逆にいえば、それだけローマ世界が安定している証拠でもあるのだが。

ギリシアかぶれのネロは、ローマにギリシア式の「教養」を根付かせようとしては、様々なことを試みる。オリンピックもどきをローマで開催し、吟遊詩人を真似て皇帝自らが歌う。最初は熱狂した民衆も、しかしいつの間にかそっぽを向くようになる。並行して、ネロの家庭教師であった哲学者のセネカが暇を乞う。

一人になったネロは、東方問題、ユダヤ問題、キリスト教問題で失策を続ける。そしてついに、各地のローマ軍団が反旗を翻す。ローマ史上、かつてない事態である。とうとうネロは、元老院から「国家の敵」と断じられるまでになる。追いつめられたネロは自刃する。これにより、ユリウス・クラウディウス朝は終焉する。

とはいえ、まだまだ帝政は続くのである。以下、続刊。

2005/09/05/Mon.

司馬遼太郎随筆集第10巻。1979年 4月から 1981年 6月までに発表された文章が収録されている。

この頃の司馬は、中国は新疆ウイグル自治区を 2回訪れており、本書にはその紀行文が多数収録されている。彼は昔から中国の少数民族に興味を持っており、特に西域におけるそれに憧れ続けていた。当時、新疆ウイグル自治区に外国人が足を踏み入れることは難しく、司馬も、中国からの招待という形で訪問している。したがって、司馬が見た中国の少数民族政策というものにも、眉に唾を付けて読まねばならない。しかし、この時期の自治区の様子を知ることができる貴重な文章であることには違いない。

さて、俺が最も興味深く読んだのは、『千石船』と題された廻船の話である。これを読むと、日本は島国であるが、そこに住む日本人は決して海洋民族ではなかったことがよくわかる。特に、江戸時代の千石船が明治末期まで現役で稼働していたという証言には驚いた。こんな民族が、よくもまあバルチック艦隊を破ったものである。

2005/09/03/Sat.

久々の筒井康隆新作……かと思ったら、「自選グロテスク傑作集」と副題にある。収録作は、

の 7編。俺は全ての作品を読破済みであったが、久し振りに筒井テイストを満喫したくなったので再読。お勧めは、ブスを徹底的にコキ降ろした『イチゴの日』。個人的に最も好きなのが『妻四態』。筒井が書く「妻」は、いつもとてつもなく素敵である。