- Book Review 2005/07

2005/07/31/Sun.

「薬師寺涼子の怪奇事件簿」シリーズ第4作。

日本に亡命した ペルーのフジモリ元大統領 ラ・パルマ共和国のホセ・モリタ元大統領が、過去に日本政府の援助で成した莫大な個人資産を出金するため、豪華客船クレオパトラ八世号に乗って香港に向かう。モリタの動向を監視するため、刑事部の薬師寺涼子警視と泉田警部補、彼らに付き従う貝塚、阿部の両巡査の計 4名が同船することになった。同時に、警備部からは室町由紀子警視、岸本警部補が派遣される。

船内で催された奇術ショーの最中に、奇術師フレデリック・ノックス二世がバラバラになって殺害される。続いて起こる連続殺人事件。「犯人」と思しき謎の生物とモリタの間には、何やらキナ臭い関係があるようだが……。涼子の破天荒な「捜査」が始まる。

なんかもう、あらすじを書いただけだと、ウンザリするようなワンパターンだな。ストーリーを追いかけて楽しむ作品ではないから、別にそれで良いけど。涼子の活躍ぶりは楽しいが、そろそろ方向転換を期待したい。

2005/07/15/Fri.

久し振りにトンデモっぽい本を掴んでしまったので紹介する。

本書は、物理学、特に物質特性に関する研究を行ってきた著者が、「物質はいかにして生まれたのか」「生命は物質からいかにして生まれたのか」について考察したものである。著者によれば、「本書の主目的はそれら (T注: 物質、宇宙、生命のこと) を専門的あるいは学術的観点から記述することではなく、あくまでも思想的、哲学的に考察することである」らしい。

物質はいかにして生まれたのか

本書は全7章からなる。最初の二章で、古代から近代にかけての、物質の根源に関する認識の変遷、および、現代的な物質の基礎的な把握が述べられている。なかなかよくまとまっている。しかし第3章で、ギリシャや日本の神話、そして聖書の世界創世の記述とビッグバンが並列に論じられるに至り、我が脳髄に赤信号が灯る。とはいえ、それほどブッ飛んだ記述はなく、一昔前に流行したニュー・サイエンス的な範囲に止まっており、それほど気にはならない。著者は冒頭で「寺田寅彦が好き」と書いており、その種の科学的雰囲気をまぶしたエッセイとしてなら充分に読める。

第4章は量子論である。俺は物理が専門でないので正確な評価はできないが、類書に比べてもわかりやすい解説であった。特に粒子と波動に関する文章は的確な挿絵とあいまって、非常に理解しやすい。そして第5章では結晶の生長について述べられる。著者の専門分野であり、興味深いエピソードが満載である。中でも、雪華結晶の生長のくだりは面白い。

生命は物質からいかにして生まれたのか

第6章は、生物や細胞進化の基礎的な理解と、それにともなう地球環境の変化について費やされている。ここもヘンなところはない。そしてようやく、著者の長年の疑問であったという「生命はどのようにして始まったのか」についての考察が第7章から始まる。といっても、これが最終章であるのだが。引っ張り過ぎ。

著者の方法論はこうである。

私は、ベルクソンの(中略)言葉にも勇気づけられ、「物質から生命へ」の直感的理解に努めたいと思う。

直感的理解か。矢吹駆の「現象学的本質直感」みたいだな。なんかカッコイイぞ。勇気づけられた著者は、まず現代生物学を一蹴する。

しかし、既に何度か述べたように、物理、化学を含む「科学」(それは人間の知的産物である)をもって、生物を究極的に理解するのは不可能に思える。その理由は何か。有機体の生物を無機体の結晶と分かつ根源が生命であり、その生命が「物質を組織し、個体を形成し、種を形成していく無限の力であり、どこまでも自己を創造していこうとする目に見えない意志」であるとすれば、(中略)目に見えない意志を科学で理解しようとするのは無理ではないか。

確かに無理である。本当に「目に見えない意志」とやらがあるのならば。ここから著者の主張は混迷を深める。以下に要約する。まず、生物といえども物質の集合体である。しかして、アインシュタインの相対性理論から、物質とエネルギーは等価であることが示された。ここに着目した著者は、「物質は具体的であるが、エネルギーは抽象的である」という、およそ科学者とは思えない言葉を残し、こう提案する。

(前略)生物を無生物と分かつ生命が「(中略)目に見えない意志」であることを思えば、その目に見えない意志はすなわちエネルギー (E) であり、そのエネルギーは物質 (m) を生み、さらに、そのようにして生まれた物質が目に見えない意志であるエネルギー、すなわち生命を生むのではないか。

(中略)「E = mc2」こそ、「物質から生命へ」を、少なくとも科学的に、理解するための道標あるいは光明ではないかと、私には思えるのである。

非常に難解である。が、突っ込みどころも沢山ある。まず、最初は「生命が目に見えない意志であるとすれば」と控えめに仮定していた著者が、後半には、「生命が目に見えない意志であることを思えば」と断言している。作業仮説が既定事実に変わってしまっているんだが。また、「科学をもって、生物を究極的に理解するのは不可能に思える」と書いておきながら、著者自身が、特殊相対性理論を援用して「科学的に」「物質から生命へ」を理解しようとしている。まことに不可解な行為である。どうしたいんだ、オマエは。

フォロー

著者によれば、これはあくまで「生命哲学」であるらしい。それに、「生命は物質からいかにして生まれたのか」は、生物学の根源的な問いでもある。生命は自己組織化できる自律的な構成体だが、いったいどの段階から「生命」といえるのか。この果てない興趣をかき立てる命題を解決するには、あらゆる分野の知性と知見が必要であることは論を待たない。そういう意味で、結晶学の専門家である著者による、生物と結晶体の比較などは面白い視点であったと思う。