- Book Review 2005/05

2005/05/26/Thu.

「逆説の日本史」シリーズ第12巻。前巻『逆説の日本史 11 戦国乱世編 朝鮮出兵と秀吉の謎』に続き、この巻では徳川家康が主題。全体は3章に別れ、第1章で関ヶ原の合戦、第2章で大坂の陣、第3章で江戸開府に伴う諸政策について論じている。

この時代になると資料も豊富になり、先行研究も充実している。従って、特に「逆説」と銘打つほどの新見解も見当たらない。連載や出版の関係もあるのだろうが、関ヶ原や大坂の陣では人間関係が複雑に交差しており、またエピソードも豊富にあるため、正直この程度のボリュームでは物足りない気もする。アウトラインをざっと掴む分には充分だが。

徳川家康の政策

井沢流の解釈が最も炸裂しているのは、第3章である。武家諸法度、禁中並公家諸法度、婚姻政策、官学 (= 朱子学)、宗教政策、身分政策、などなど。家康が幕府開設にあたって打ち出した様々な政策が、家康本人の立場に立って詳しく論じられている。俺が興味深く読んだのは、「どうして水戸藩は勤王なのか」「どうして御台所 (将軍の正妻) の腹から世継ぎが出ないのか」「どうして東本願寺と西本願寺があるのか」「部落差別は本当に徳川幕府の身分政策が原因なのか」などである。

井沢元彦の推論が当たっているかどうかはともかく、確かにこれまでの通説では得心できない点もある。じっくり考えてみると、いかに家康という男が幕藩制度を構築するのに心を砕いたか、ということが見えてくる。そりゃあ 260年も続くよなあ、江戸時代。と同時に、その徳川幕府を倒したのが薩摩・長州、つまり関ヶ原で敗れた島津・毛利の両藩である事実は、いかにこの合戦が後世に影響を残したかを雄弁に物語る。もっとも、このような「恨み」が 300年も続いたのは、家康が築き上げたシステムが素晴らしく堅固であったため、すなわち階層間のダイナミズムが全く失われたため、であるとも言える。しかし、それが当時世界最先端の「平和」であったのだから、これまた難しい問題である。

2005/05/12/Thu.

著者名とタイトルだけを見て買ったのだが、中身はヤオイに関する評論だったので面食らった。面白かったけど。

大塚英志の評論でもそうなんだけれど、こういった女性論 (というか少女論) を読むたびに、「女の子ってのは大変だよなあ」と思う。俺は男だから、正確に理解できているかわからないし、理解したところでどうしようもないのだが、いつもそんな感想を持つ。かといって、「男最高!」ってわけではないんだけれど。

多くの女性論が男を仮想敵とみなすところから出発しているのに対し、中島梓のそれは、男にも真摯で優しい心配りがなされている (ヤオイなど手にも取らないような男性にこそ、この評論を読んでほしいとも述べている)。それ故に、男にも理解しやすいのではないか。

そう、だから、男性だって抑圧され差別されているわけです、女性とまったく同じように。だから男性だって社会に出てゆくのは怖い、ディスコミュニケーションの宇宙のなかでまどろみ守られ癒されていたい。いっぺん「俺は男だ」といって外に出ていってしまったら最後、もう延々とひたすら闘いつづけ、勝ち続けてゆかなくてはならないということをかれらは知っている。

こういった男性描写ができる女性は少ない。ヤオイのヤの字も知らないような俺でも、興味深く読めるゆえんである。

2005/05/11/Wed.

俺が初めて読んだ森巣博の小説は『神はダイスを遊ばない』であった。この本の帯には、「阿佐田哲也を超えた!」という惹句が踊っていたのだが、あまり期待はしなかった。俺は阿佐田哲也が好きで、その著作も概ね読破している。それ故に、そうそう彼を越える作家が現れるとは思わなかったのだ。

阿佐田哲也の小説も日本人離れしているが、登場人物の情念や、そこに描かれる風景は極めて日本的である。その点、森巣博の小説は無国籍的とでも言おうか、非常にドライだ。決して乾いているというわけではなく、登場人物は魅力的だし、現代的で、独特のユーモアがある。そして何よりも痛快なのだ。

強者と現実

本作『非国民』では、二つの側面からストーリーが綴られる。まず、警視庁生活安全課の芳賀刑事を通して語られる、日本の警察機構、司法制度の腐敗がある。警視庁生活安全課といえば、『新宿鮫』を思い浮かべる人も多いだろう。『新宿鮫』にも、現代日本の病巣に対する鋭い指摘と批判はあるが、鮫島のキャラクターと相まって、それも理想的な提言という趣がある。

『非国民』で描写される日本の現状は、『新宿鮫』のそれより救い難い。といっても、いたずらに暗く描写されているわけではない。悪徳刑事・芳賀も、とんでもない小悪党なのだが、どうにも憎めないところがある。合間合間に挟まれる「警察官心得」や「警視庁の歌」と現実世界のギャップが凄まじく、どうにも笑いが込み上げてくる。シュールというよりは、ほとんどギャグなのである。

だが、ひょっとしたら「笑える」ではなく、「笑うしかない」というのが我が日本の現実ではないのか、という暗澹たる予感も抱かされる。もちろん小説的な誇張もあるのだろうが、真面目に読むと結構こたえるものがある。

この芳賀刑事が、とあること(これも警察機構の矛盾に起因する)から、ドップリと博打にはまって進退が窮まってしまう。そして、本作のもう片方の主人公、『ハーフウェイ・ハウス・希望』の住人との間で問題が発生する。

弱者と希望

『ハーフウェイ・ハウス・希望』とは、薬物依存からの更生を目指すための施設である。設立者は、元エリート証券マンにしてコカイン中毒者だったという経歴を持つ賭博の才人、鯨。元ヤクザで覚醒剤中毒のスワード。元暴走族でシンナー中毒の少女、バイク。同じく暴走族あがりで、少年院を出てきたばかりのシンナー小僧、亮太。そして、住人の更生を見守るオーストラリアからの留学生、メグ。

スワード、バイク、亮太は、「<すべてが許される明日>を夢見て、ひたすら<今日>を耐える」という、鯨独特の哲学に従って、薬物依存からの脱却を闘う。しかし彼らの心が通い始め、皆に「希望」が見えてきたとき、『ハーフウェイ・ハウス・希望』の運営資金が底を尽き始める。そこで彼らは、博打で一稼ぎしようと画策する。

『ハーフウェイ・ハウス・希望』の住人達には、現代日本の様々な問題が壁として立ちふさがる。彼らを取り巻く過酷な事態に、胸が痛む場面もある。読者は、彼らの魂が救われることを願わずにはいられない。様々な要素がギッシリと詰め込まれた『非国民』は、悪漢小説であり、青春小説であり、社会小説であり、ユーモア小説であり、そしてもちろんギャンブル小説でもある。つまり、上質のエンターテイメントなのだ。