- 『江藤淳と少女フェミニズム的戦後』大塚英志

2004/10/27/Wed.『江藤淳と少女フェミニズム的戦後』大塚英志

副題に「サブカルチャー文学論序章」とある。本書は、彼がずっと書きつづっている「サブカルチャー文学論」の、江藤淳パートである。タイトルにある「少女フェミニズム」も評論家・大塚英志のキー・ワードであって、これまでに連合赤軍事件や、少女漫画雑誌「りぼん」に関する評論がある。

評論家・大塚英志

小説家、漫画原作者といった顔も持つ大塚英志であるが、評論もよく書いてある。なかなか面白いことを言っているのだが、イマイチ信用できないのは、彼がいつも「ぼく」という一人称を使って評論を執筆しているためだ。

何も評論で「ぼく」を使ってはいけないということはないのだが、彼の評論の「売り」である「サブカルチャー」を意識し過ぎているんじゃないだろうか、という、半分は苦笑いの危惧を覚える。どうにも若作りに見えてしょうがないのだ。俺の世代からすれば、そもそも「カルチャー」を「メイン」と「サブ」にわけて考えることからして無意味なのであって、それはもう前提となっているのである。ことさらに力を込めて「サブカルチャー、サブカルチャー」と叫ばれても、俺には「頑張れよ、オッサン」という感想しか湧いてこない。

江藤淳

「メイン」か「サブ」かと問われれば、間違いなく「メイン」に属する江藤淳を、「サブ」の論法や言葉で批評したのが本書である。が、もはやその前提が噴飯物なのだ。大塚英志が取り込もうとしている「今」の若い子らにとって、「江藤淳」とは「メイン」どころか「歴史」の人であって、彼のそういう切り口が有効だとはとても思えない。それどころか、「江藤淳」という名前を知っているのも、一部の知的スノッブに限られているんじゃないか。

まあ、そのようなスレ違いはともかく、大塚英志のスタンスで描写される江藤淳、これ自体は非常に面白い。江藤が悲壮なまでの決意をもって、文学の最前線で「メイン」と「サブ」の「仕分け」をしていたという、その姿が執拗なまでに描かれている(しかしそうなると、大塚のポーズも、それは単なる江藤の裏返しに過ぎないんじゃないかとも思う)。結局、最後にはその「仕分け」すらが破綻してしまい、江藤は文芸時評をやめてしまう。夫人の死を契機に江藤は自死してしまうのだが、そのずっと以前から、江藤の文学的絶望はあった。本書は評論ではあるのだが、一人の男の悲しい物語としても、充分に読める。

来歴否認の人々

後半では、江藤を「来歴否認の人々」と規定した上で、他の同種 (と思われる) 作家と比較している。対象とされているのは、三島由紀夫、手塚治虫、柳田国男、村上春樹と村上龍である。これらの作家に興味があるならば、一読しても損はないと思われる。