- 『朝霧』北村薫

2004/05/29/Sat.『朝霧』北村薫

「円紫師匠と<私>シリーズ」第5作。『夜の蝉』以来の短編集である。収録作品は、

の 3編。

北村薫作品の登場人物

のっけからこんなことを書くと、物凄い顰蹙を買いそうなのだが、実は俺、北村薫ってあまり好きではないのよ。話は面白いし、文章も上手いと思う。人物・風景・心情、全てにおいてよく書き込まれているのは間違いない。だから読んでいるのだが。

鼻に付くのは、あの性善説にのっとって造形された登場人物達。彼等の魅力が北村薫作品の売りであり、熱狂的な読者が肩入れしている部分も、まさにそこであるということは理解できるのだが、俺には受け入れられんのだよ。俺が汚れているだけなのだろうが、まことに白々しく映る。

電波少女<私>

例えば、表題作『朝霧』において、主人公である<私>は、数年前の観劇で隣の席に座っていた男と再会する。ただそれだけで、彼とは何の面識もない。そこで<私>は彼に、「『レクイエム』を聴きにいらしていたでしょう?」と話しかけようとする(最終的には話しかけなかったのだが)。

ありえん!と思うのは俺だけか。普通、数年前の観劇で、隣に誰が座っていたかなんて覚えていないぞ。<私>が彼を覚えていた理由として、幕が開く前に彼が読んでいた本が印象的だったから、などと書いてあるが、どうなんだろう。というか、その記憶の仕方がまた怖いのだが。

特に男の俺としては、そのように話しかけられた彼の方に感情移入してしまうのだ。想像してほしい。「私、X年前の観劇で貴方の隣に座っていたんです」と、見知らぬ女から声を掛けられたときのことを。絶対に引くって。以下は妄想。

男「……よ、よく覚えておられますね……」
女「だって貴方はあのとき XX を読んでおられたでしょう。ずっとその本が気になっていたんです」
男「……そ……、そう、です……か」

怖いんだよ!

書評などで「リアリティがない」という意味で「人間が描けていない」というコメントがある。ところが、北村薫作品は、とても「人間が描かれている」にも関わらず「全くリアリティがない」。両者は別物だったのね。

さて、気になるのが次作だ。どう考えても<私>と彼の物語になるとしか思えんのだが。一体どうなることやら。冷や汗を流しながら読むことになりそうだ。